index > 2001.02.05
(最初に断わっておきますが、ここに書いてある人々の台詞などは、記録がある訳ではなく、私の記憶だけなので、多少違う場合もありますので、ご了承ください)
2001.2.5、この日、じゃーもは伝説になりました。
告別式の日。
前日と同じくらいの人数。これだけの人が、じゃーもとの別れを惜しんでいるのだと、じゃーもの偉大さに改めて驚かされました。あとで聞いたところによると、二日間で800人程の弔問客が来たそうです。
この日は、さすがに、前日涙を我慢した人も、もう、堪え切れない様でした。ひとりひとり献花をしていると、次から次へと、涙を流して棺を後にする人々…。
ここでも、堪えたぞ、私は。がんばったよ、マジで!
前日も見たけれど、前日は本当に身長まで小さくなったように感じていました。だから『小じゃーも』いわゆる人形だと思っていたのです。これ、マジで。でも、実際、棺を開けていると、ちゃんとした、等身大のじゃーもでした。チョップTシャツとジーパンに、必勝はちまきを手元に置いて、はちまきの側には、メンバーと一緒の写真…本当に『チョップ名人』に賭けてたんだね…大好きだったんだね…。
皆様の献花が終わり、しばらくすると「御喪主様の挨拶がありますので、式場にお入りください」と、業者の人に呼ばれ、みんな中まで入りはじめました。全員が入ったことを確かめ、弔電の紹介、そして、御喪主様の挨拶。
奥様の美沙緒さんが、ゆっくりと確かめるように話し始める…。「本日は、平日の昼間にも関わらず、主人、年元のためにたくさんの方に来ていただき、本当にありがとうございました」頭を下げる弔問客達…そして、私も…
涙をこらえながら、奥様は続けます。ゆっくりと、しかし、はっきりとした口調で。「…1999年9月、発病。大腸癌、肝臓への転移でした。発見時の余命は、2年から3年、短くて1年というものでした。私達の恋愛時代、まだS.E.T.にいた主人が出演していたのは“癌ファイター”というお芝居でした。その当時はまだ恋愛気分で、お互いに『もし、癌がわかったら告知しようね』と約束しあったものでした。その時は、遠い先のことだと思っていたのです。結婚して2年3ヵ月後、そんなに早くその時が来るとは思ってもいませんでした。発病前も、発病後も、主人の生きる姿勢は変わりませんでした。日々一所懸命。発病してから、よく『僕は、いつ死んでも悔いが残らないように生きている。もし、今死んでも、悔いはない』と口癖のように言っていました。そして、私に向かってよく『僕が死んで、悲しむのはいいだろう。でも、可哀想だとは思わないで欲しい』と言っていました。
こうして抗癌剤をうちながらの生活が始まりました。後に見つかった遺書にはこう書かれていました。“僕は、地味かも知れないけど、毎日花を咲かせていたよ。誰も気付かない、小さな小さな花だったかもしれないけどね”」すすり泣きが至る所から、聴こえてくる中、奥様の声だけが響く…。
「…病気がわかってから、主人は“チョップ名人”というバンドで、LIVEをしていました。2000年夏には、大阪、名古屋へのツアーを決行。毎日家で見せる顔とは違い、とても楽しそうでしたが、身内にしてみれば、命を削っているようで、とても辛いものでした。主人が、命を削ってまで皆さんに伝えたかったのは“笑い”だったのです。」笑って送るはずだったのに…もう耐えられません…
「…2000年9月急変、肝臓、リンパ節への大量転移でした。そこから、病院での闘病生活が始まりました。ああ見えて、とても寂しがり屋の彼は、出来るだけたくさんの人にお見舞いに来て欲しいと言っていました。一人もお見舞いに来ない日は、とても淋しそうでした。私が帰る時、主人は毎日、私の手を取って泣いていました。それは、一人で迎えなければならない、真っ暗な夜の不安からだと思います。」すすり泣きはいつの間にか嗚咽に変わっていく…。
「…2001年1月からは、痛さを押さえるため、モルヒネの投与が始まり、意識も朦朧としてきました。亡くなる一週間前、しゃべることもままならないはずの主人が不意に目を開き、ゆっくりと、しかし、はっきりとこう言いました。「ボクハカワッタ。メノマエノモノヲコクフクスル」今思えば、それからやってくる昏睡状態での闘病のことを言っていたのだと思います。主人は最期まで、立派な癌ファイターでした。」…じゃーもは最期まで生きることを諦めなかったのだ…!
「…最期の三日間、主人は、目をずっと開けていました。お見舞いに来てくれている人の顔を目に焼きつけたかったのでしょう。最後に、皆様に、2人でお礼を言わせてください。『33年間、本当にありがとうございました!!』」会場中のほとんどの人が泣いていました。女性も男性も関係ありません。もう、じゃーもに会うことは出来なくなるのです。あの笑顔はもう見られなくなるのです。こんなにたくさんの人がじゃーもを失ってしまうのです。
御喪主様の御挨拶も終わり、棺を、もちろん、チョップ名人のメンバーと、おそらく、スタッフであろう人々が担いで、そこにある、火葬場に運ばれて行きました。一年前のように、棺からじゃーもが起き上がることはありませんでした。本当に、じゃーもは、空の上へと旅立って行きました。
その後、火葬場で御焼香をさせていただき、私達はその場を後にしました。もし、そこで骨を見てしまったら、自分が自分でいることに自信がありませんでした。
…じゃーもは、こうして、伝説になったのです。
2001.2.5、じゃーもが伝説になった日。
私は決して、じゃーもを忘れることはないでしょう。
あんなに、楽しいLIVEはありませんでしたし、あんなに超エンターティナーな人は初めてでした。
本当にいつも笑顔でした。本当にいい人でした。
一緒にお仕事をした時も、私達の要求以上に面白いことをしてくれたり、とても楽しかった記憶です。
じゃーもさんは、全然憶えていないようでしたが(笑)
本当に本当に素敵な人でした。
チョップ名人のLIVEを一番前で見ていた時、何度か、じゃーもが辛そうな顔をしたことがありました。その時、私はとても不思議でした。「こんなに楽しいLIVEなのに、何故この人はこんなに辛そうな顔をするのだろう?」と。しかし、その次の瞬間には、ものすごく笑顔になっているので、気のせいだろうと思っていたものです。今思い返すと、それは気のせいではなく、本当に辛かったんだなぁと思います。そんな中、LIVEをやっていたのです。彼のLIVEは、命そのものだったのです。そんな命がけのLIVE、笑い、そして、命の叫び…人に届かないはずはありません。こうして、私達を虜にしていったのです。
私は、本当にたくさんのことをじゃーもから教えてもらいました。そして、考えさせてもらいました。じゃーもがくれた、たくさんのことを、私は忘れません。そして、これからは、じゃーもに負けないように、音楽をやっていこうと心に決めました。じゃーもに笑われないように…。きっと、空の上で見ていてくださいね、じゃーも!
じゃーもはこれからも皆さんの心に生き続けるでしょう。
そして、私の心にも…。
ありがとう、ありがとう、じゃーも!!
LIVEは本当に楽しかったよ!!
日本武道館では出来なかったけど、私の中では、いつも武道館だった!!
これからは、空の上で活躍してくださいね☆
また、会える日までっ!!